会計の歴史:その先駆者ルーカ パキオリ
複式簿記、会計の歴史
CPA上田 稔著
(ばらばらにつけられている情報が どこに、どれだけ、どんな状態にあるか。ばらばらで形のない情報を理解して つなぐことで価値が生まれる。)
商業は古代の時代からヨーロッパではさかんであった。ギリシャ時代、ローマの時代、シルク、ワイン、銀、金、スパイス、等々、商人は遠い距離をカバーした。ローマ帝国が崩壊しようが商売の規模にはあまり影響はなかった。人々は物が必要なのです、人々は食べねばならない。9世紀頃とされている。今のイタリアのベニスやAmalfiあたりの商人が外国に船を繰り出し、そのリスクを分散するためと、造船などの資本のかかるベンチャーであるので、パートナーシップを組み、お金を出し合った。無論、商人の古い歴史を持つ中近東のmuqaradaなどではすでに長く使われていたリスク分散手法ではあったが。しかし、真に、商業上の拡張と、大きな転機がヨーロッパにおきるのは13世紀といえる。
13世紀に入ると、商売は国内でも栄、国際的になり、大陸全体に広がり始めた。この変化を大きく進行させたのは、ベニス、ピサ、ジェノアの様なイタリヤの商業都市だった。
このような背景の中にルーカ パキオリの様な人が生まれてきたと思う。"PACIOLI DE BORGO SVMMA DE ARITHMETICA,GEOMETRIA,&c."とチョコレート色の皮の厚い本の題名であり、一番最後の場所に、現在に至るお金の勘定の基本となる会計学の研究が書かれている。著者の名はFra Luca Bartolomeo de Pacioli(Bartolomeo de Pacioli,又Paccioli,Paciolo)またの名を生まれ故郷(Sansepoclo) のLuca di Borgo(ボルゴのルーカ)と呼ばれた。ボルゴはタスカニー地方の都市である。あのフローレンスの近くである。
13世紀頃、この地方ではabacus schoolと呼ばれる商人の養成のための商業学校があり、そこでは、商業に必要な算数や代数や商法、そしてこの地方の商人の使う言語、そしてここではラテン語ではなくvernacularと呼ばれる地方語、その地方独特な言葉で教育を受けた。vernacularとは話す言葉とか地方の言葉で、主にしゃべる言葉であり、書く言葉ではない。日本でいえば、鹿児島弁とか東北弁などとご解釈ありたい。また当時のこの地方の人達や商人は誤りの多いローマ伝統の数学よりもヒンズーアラビック・計算システムを取り入れていた。当時のピサ共和国の数学者Fibonacci (Leonardo of Pisaとも呼ばれる)のLiber Abaci (book of calculation)と彼のヒンズーアラビック数値という本が教科書であったらしい。
インドの数字に関す学問は紀元前400年にもさかのぼるし、ゼロ(0)というコンセプトを生みだしたのもインドであることを考えれば、シルクロードで繋がれたこの地方では当然のこと考えられる。ルーカ パキオリ、彼が生まれた年月日は定かではない、1446年と1448年ではないかとされている。亡くなったのは1517年6月19日、彼が約70歳の頃です。そして生まれ育った場所も、彼がなぜ数字の世界に入っていたのかを知る面で重要と考えます。
彼は前記したように、タスカン(Tuscan)地方のSansepolcroでうまれ、abbaco教育を受けた。Abbaco教育とは国家的な言語であったラテン語ではなく、その地方独特な言葉、庶民の、商人たちの独特な言葉で、且つ商業に必要な、商業を中心とした知識を受ける教育をいう。ラテン語ではabbacoと書くが、英語に訳すとabacusである。14世紀頃はギリシャ語でabaxとも呼ばれ、計算板の意味であり、後の17世以ごろになって、現在の”そろばん”という解釈になった。
彼の育った1400年ごろのこの地方も、彼の教育に重要な意味を持つ。2種類の中世の組織がローマ帝国が残していった遺産を継承していた:イタリアが商業帝国であったことと、国家の経営する法人と北ヨーロッパのギルド組織である。ルネッサンスをファイナンスしたと言われるMEDICI銀行、Giovanni di Bicci de Mediciによる創業が1392年とされている。また、パキオリや彼の親友だったレオナルド ダビンチやMediciの人達の考え方や行動を理解するには当時の法のあり方、考え方が重要なので付記するが、当時、2のグループ、いや法律家たちの考え方がお金に関してあったと思う:一つはromanistsと呼ばれ、ローマ法のスペシャリストであり、もう一つはcanonistsと呼ばれ, 教会の法律、宗教法を学んだ人達です。
ここではこのことよりはパキオリに話を戻します。ただ、時代背景として、このお金に関する2の考え方は当時を理解するためには大切です。パキオリを有名にしたのは前記した 彼の出版した("Summa de Arithmetica, Geometria, Proportioni et Proportionalita" と題する615ページにわたる数学の教科書なのですが、そこに付録として21ページの簿記に関する論文が実は最も彼を世界的に有名にしたのです。この21ページの付録の名は”Particularis de Computis et Scripturis"であり、英語に訳すと”Detail of Calculation and Recording",日本語にすれば”計算と記帳の詳細”とでも言いましょうか。この本の出版は1494年のベニスのことです。
彼の生まれ、育った時期も彼に味方をしています。そうです!1445年、グーテンベルグの印刷機発明が1445年です。しばらくして、ベニスは印刷の中心地になっていた。この印刷機が当時のインターネットとでも言いましょうか。知識の拡散を進めました。バイブルを含む、色々な書かれたものが多くの人にも読まれる機会が出来たわけです。ですから、バイブルの理解に関しても、もう既存の神父の解釈だけではなく、多くの人が読むことが出来るようになり、色々な解釈が生まれ、1517年、ルター 宗教改革を唄うということに発展していくわけです。1438年から1478年イタリアのフィレンツェのMedici家の独裁体制固まる。大変な銀行家の出現でした。益々、会計の重要性が問われる時代に入っていくわけです。この頃の日本では1467年日本では応仁の乱が始まる。
パキリオの話に戻ります。この数学の本の付録に商人のための複式簿記として、一つの取引を二つの勘定へ対応的に記入する会計の方法とそのあり方を付録として乗せたことにある。この本は本来、数学の本であり、彼の焦点はこの数学にあったと思える。ところがこの本の付録、その題名はDe Computis et Scripturisなる薄っぺらな小冊子が最も貴重な、長く読まれ、当時のベニスの商人たちの会計基準となるのです。パキオリだけが当時の数学者・教育者だったわけではないですが、彼の教えの特徴は簡単なことを雄弁に且つ迫力もって説明するところにあったとされています。単に、ここには複式簿記の方法が書かれているのではなく、現代にも充分説特力のある、”帳簿は毎年締めるのが良い、特にパートナーシップなどでは、なぜなら几帳面に、回数多く帳簿をつける習慣は友を増やすからです。””なにもしない人間は間違いをしない、しかし間違いをしない者はなにも学ばない”、”法はしっかりと目を覚ましている者を助け、眠っている者は助けない、目をしかりとあけているのだ!”彼の説いたこの4点をとっても、ここには犯罪の防ぎょ、重要性や客観性の原則、流動性の原則など現代の会計原則が説かれている。
会計の基盤を最初に学問的に、実用的書き記した最初の数学者、パキオリ。パキオリさんてどんな人なんだろう?どうやって彼は会計の知識を取得したのだろうか、ただ彼が商業学校で教育を受けただけでは説明がつかない。彼の20歳代前半、彼は彼の生まれ育った町、Borgo San Sepolcro, イタリアの中部にある小さな町の豊かな商人のところで見習い奉公人をしていたらしい、近くの有名な街といえば北側にあるフローレンス、東側にはアドリア海に面したサンマリノではあるが、日本でいえば長野の山の中って感じがするところである。彼が20になったとき、彼はベニスへと行く。Borgoからベニスといえば北へかなりの距離である。しかし当時のベニスといえばシェイクスピアの小説、ベニスの商人、でも知られ、大変な商業都市である。どんなつてがあったのかな不明だが、18歳になった彼はベニスの豊かな商家、Antonio Rompiasi家の3人の息子たちの家庭教師として迎えられる。1464年頃である。自身の数学の勉強をしながら、家庭教師をし、そのころ彼の最初の数学の本を書く、教えている子ど達の数学の教科書である。そのころ、彼はベニスの有名な数学者、哲学者、作家でもあった大学教授のDomenico Bragadinoから高度な数学を学んでいたとされている。家庭教師をしながら、有名大学で学んでいたということでしょう。
1472年から1475年の間に、彼が30歳になったころ、彼はフランシスカン派の牧師となる。Fra Luca, father Luka, Friar Lucaの誕生である。数学とキリスト教の神学を教え始めた。筆者は1957年に米国のコロラド州デンバーにあるカトリックのカレッジ、Regis College,に留学したこともあり、牧師になっていく人達にも友を持つことになったが、そんなこともあり、パキオリがcanonistsになり、牧師になっていく過程を自分で推量してみた。正しいかどうかはわからないが。当時のルネッサンス文化背景には、ルネッサンスヨーロッパへと発展していく過程で、会計と会計(accounting)という言葉は同時に道徳と宗教を内包する属性を持っており、KRINOSの様な,それは人の魂に対する最後の審判(judgement of souls)(KRINOS)並びに宗教上の罪の監査(Audit of sin)を人に思い起こすものでもあった。人は死ぬとすぐ神の前に引き出され、罪の監査と、それにより神のジャジメント、つまり裁決を受ける。罪あるものは地獄へ、良きものは極楽へ送られるというのだ。これがジャジメント,KRINOSという言葉の持つ意味の重さであり、そこから会計((ばらばらにつけられている情報が どこに、どれだけ、どんな状態にあるか。ばらばらで形のない情報を理解して、つなぐことで価値が生まれる。)という意味に繋がっていく。当時の社会的な一般常識であったとご理解いただきたい。
1477年から1480年、Perugia大学で教鞭、600ページの数学の教科書を書いている。 彼は熟練した観察者でもあった。だから、彼はベニスの商人たちが借方(debit)と貸方(credit)と呼ばれる二つ記帳をすることにより、商売の取引の連鎖を記録していることに気が付いていた。会計でdebit(借方)、credit(貸方)という言葉の使用の歴史的起源といえば、簿記の単式記入法の時代から存在しており、その意図は主として、お客さん(debtor=債務者)に貸している金額並びにcreditor(債権者)に借りている金額の連鎖の記録に使われていた。debit(借方)はラテン語で”彼は所有している”であり、credit(貸方)はラテン語で”彼は信用する”という意味であった。一つ一つの取引はそれぞれ単独に記録されていたが、まだ、バランスシートのコンセプトは生まれていなかった。また、例えば、一年という一つの期間、ある期間を限定して、その間、商売が儲かっているかどうかを調べる努力はされていなかった。パキオリは商取引を分類し、記帳することにより、改良をし、バランスシートの作成に必要な要素を提示した。
このパキオリの書いた小冊子の記述範囲に説明されているシステムは彼によって考案されたものではない、ベニスではこのシステムは13世紀にさかのぼって使用されてきている。しかし、パキオリは多くの異なる会計の原理を集結させ、整理し、順序正しいシステムにした最初の人といえる。 そのことが現代の複式記帳法、複式簿記の基盤となったことには疑いを残さない。パキオリ自身商売をしたことはない、商人であったこともない、学者たちの信じるところでは、パキオリの早い時期での徒弟見習期間、あの富豪のRompiasi家の子供たちの家庭教師として、彼は簿記をつけるプロセスを観察し、たぶん、簿記をつけるのを助けることもしたのではないだろうか。
彼は会計に関する論文の書き出しとして、商売を成功裏に運営したい者にとっての3の必要事項とかきとめ、彼の会計に関する論文書き始めます。彼は宣言します:最も重要なものは現金です 又は それと同等の経済力を持ったものです。第2に、良き会計士であるとともに、巧みな数学者になること。第3にすべてのビジネスに関する仕事は秩序を経てて遂行できるよう整理整頓され、それらの詳細を一目でわかるようにしてあることである。彼のアドバイスを宗教上の考えと調和させて、彼はビジネスマンの第一の責任は動産並びに不動産の在庫を整える、すなわち、動産 並びに不動産を一つ一つ、そのコンディション、各性格 そして貸してあるのか、預託されているのか記帳することにある。
取引は明白すぎることはないと彼は断言する。パキオリは商人たちに3の帳簿をつけることをアドバイスしている:1.the memoriale (英語で:memorandum、メモ) 2.the giornale (journal、仕訳帳) 3.the quaderno (ledger、原簿)としてあり、the ledger(原簿、台帳)を中心の書類とし、そして the ledgerにはアルファベットのインデックスをつけるとある。
メモランダム又は原始記入帳簿:借方と貸方を目録してある仕訳帳:そしてアルファベット別にすべての債務者と債権者を記載してあるインデックスがついて且つそれらの各自の帳簿に記載されている債権のページ番号が記載されている原簿または台帳の3である。もしも借方、貸方の総計が等しくないならば、そのエラーは入念に突き止めるの様な説諭もふくめて、試算表の作り方も注意深く説明されいる。帳簿の残高がまとまり、新しい帳を開く前に、パキオリは忠告する:仕訳帳と原簿(台帳)を注意深く比較することとある。彼は控えめに提案する:商人は助手を雇い、まず仕訳帳を助手に渡し、商人自身は台帳を持つ。そして、助手が各々の記載事項が、最初に借方勘定、それから貸方勘定を記帳されているべき原簿のページ番号を声に出して言う間、その商人は特別なマークで原簿に記帳されている記載事項をチェックする。もし帳簿が合わなければ、パキオリは言う、不一致は確認され、帳簿は訂正されなけばならない。
彼は同時に経費勘定項目や小払い用の現金勘定項目に関してやパートナーシップ勘定並びに代理店勘定や銀行や役人との対処方法とも大変しっかりとした忠告をしている。書類はしっかりと正しく確認され且つファイルされなければならない、そしてビジネスマンというのは思い出させるためのメモ帳を持ち、それに毎晩床に就く前に、終了した件はチェックオフし、残っている件を見直す。このようなことを提案している。
彼の人生を通して、彼は真のルネッサンスマンであった。彼は著者であり、複数の大学で数学を教え、彼の生まれ故郷の町の僧院の僧長であった。
それでは、パキオリは当時の有名人であったかというと、そうではなかったと言える。彼の、例の会計学に関する21ページの付録本は多く翻訳されたが、それにとどまった。それから15世紀の後半、イタリアはスペイン帝国の支配下にあったり、フランスの侵入があったり、当時の有名な思想家、Pico Della Mirandolaも会計学を商人の数学として蔑視していたとされている、当時の大学教育の専攻科目やカトリックのイエスズ会 並びに Erasmian(エラスムス、オランダの人文主義者)派から会計学は学問としては除外視されていた。多くの当時のエリートは会計学を商人の数学として蔑視していたと言える。次の300年、18世紀になるまで、会計学は英国の商人たちの中心になることはなかった。
しかし時代は急激に変化していく、当時のお金といえば主に金とか銀のコインが主でした。15世紀から17世紀、スペインがアメリカ大陸から多くの金を欧州へと持ち込むのです。金の値段は乱高下し、その価値は下がり、巨大なインフレが欧州を襲います。お金に対する、いや 勘定に対する認識は次第に一般市民へと広がっていきます。18世紀、会計は英国商人たちの重要な学問となる。
終り
CPA上田 稔著
(ばらばらにつけられている情報が どこに、どれだけ、どんな状態にあるか。ばらばらで形のない情報を理解して つなぐことで価値が生まれる。)
商業は古代の時代からヨーロッパではさかんであった。ギリシャ時代、ローマの時代、シルク、ワイン、銀、金、スパイス、等々、商人は遠い距離をカバーした。ローマ帝国が崩壊しようが商売の規模にはあまり影響はなかった。人々は物が必要なのです、人々は食べねばならない。9世紀頃とされている。今のイタリアのベニスやAmalfiあたりの商人が外国に船を繰り出し、そのリスクを分散するためと、造船などの資本のかかるベンチャーであるので、パートナーシップを組み、お金を出し合った。無論、商人の古い歴史を持つ中近東のmuqaradaなどではすでに長く使われていたリスク分散手法ではあったが。しかし、真に、商業上の拡張と、大きな転機がヨーロッパにおきるのは13世紀といえる。
13世紀に入ると、商売は国内でも栄、国際的になり、大陸全体に広がり始めた。この変化を大きく進行させたのは、ベニス、ピサ、ジェノアの様なイタリヤの商業都市だった。
このような背景の中にルーカ パキオリの様な人が生まれてきたと思う。"PACIOLI DE BORGO SVMMA DE ARITHMETICA,GEOMETRIA,&c."とチョコレート色の皮の厚い本の題名であり、一番最後の場所に、現在に至るお金の勘定の基本となる会計学の研究が書かれている。著者の名はFra Luca Bartolomeo de Pacioli(Bartolomeo de Pacioli,又Paccioli,Paciolo)またの名を生まれ故郷(Sansepoclo) のLuca di Borgo(ボルゴのルーカ)と呼ばれた。ボルゴはタスカニー地方の都市である。あのフローレンスの近くである。
13世紀頃、この地方ではabacus schoolと呼ばれる商人の養成のための商業学校があり、そこでは、商業に必要な算数や代数や商法、そしてこの地方の商人の使う言語、そしてここではラテン語ではなくvernacularと呼ばれる地方語、その地方独特な言葉で教育を受けた。vernacularとは話す言葉とか地方の言葉で、主にしゃべる言葉であり、書く言葉ではない。日本でいえば、鹿児島弁とか東北弁などとご解釈ありたい。また当時のこの地方の人達や商人は誤りの多いローマ伝統の数学よりもヒンズーアラビック・計算システムを取り入れていた。当時のピサ共和国の数学者Fibonacci (Leonardo of Pisaとも呼ばれる)のLiber Abaci (book of calculation)と彼のヒンズーアラビック数値という本が教科書であったらしい。
インドの数字に関す学問は紀元前400年にもさかのぼるし、ゼロ(0)というコンセプトを生みだしたのもインドであることを考えれば、シルクロードで繋がれたこの地方では当然のこと考えられる。ルーカ パキオリ、彼が生まれた年月日は定かではない、1446年と1448年ではないかとされている。亡くなったのは1517年6月19日、彼が約70歳の頃です。そして生まれ育った場所も、彼がなぜ数字の世界に入っていたのかを知る面で重要と考えます。
彼は前記したように、タスカン(Tuscan)地方のSansepolcroでうまれ、abbaco教育を受けた。Abbaco教育とは国家的な言語であったラテン語ではなく、その地方独特な言葉、庶民の、商人たちの独特な言葉で、且つ商業に必要な、商業を中心とした知識を受ける教育をいう。ラテン語ではabbacoと書くが、英語に訳すとabacusである。14世紀頃はギリシャ語でabaxとも呼ばれ、計算板の意味であり、後の17世以ごろになって、現在の”そろばん”という解釈になった。
彼の育った1400年ごろのこの地方も、彼の教育に重要な意味を持つ。2種類の中世の組織がローマ帝国が残していった遺産を継承していた:イタリアが商業帝国であったことと、国家の経営する法人と北ヨーロッパのギルド組織である。ルネッサンスをファイナンスしたと言われるMEDICI銀行、Giovanni di Bicci de Mediciによる創業が1392年とされている。また、パキオリや彼の親友だったレオナルド ダビンチやMediciの人達の考え方や行動を理解するには当時の法のあり方、考え方が重要なので付記するが、当時、2のグループ、いや法律家たちの考え方がお金に関してあったと思う:一つはromanistsと呼ばれ、ローマ法のスペシャリストであり、もう一つはcanonistsと呼ばれ, 教会の法律、宗教法を学んだ人達です。
ここではこのことよりはパキオリに話を戻します。ただ、時代背景として、このお金に関する2の考え方は当時を理解するためには大切です。パキオリを有名にしたのは前記した 彼の出版した("Summa de Arithmetica, Geometria, Proportioni et Proportionalita" と題する615ページにわたる数学の教科書なのですが、そこに付録として21ページの簿記に関する論文が実は最も彼を世界的に有名にしたのです。この21ページの付録の名は”Particularis de Computis et Scripturis"であり、英語に訳すと”Detail of Calculation and Recording",日本語にすれば”計算と記帳の詳細”とでも言いましょうか。この本の出版は1494年のベニスのことです。
彼の生まれ、育った時期も彼に味方をしています。そうです!1445年、グーテンベルグの印刷機発明が1445年です。しばらくして、ベニスは印刷の中心地になっていた。この印刷機が当時のインターネットとでも言いましょうか。知識の拡散を進めました。バイブルを含む、色々な書かれたものが多くの人にも読まれる機会が出来たわけです。ですから、バイブルの理解に関しても、もう既存の神父の解釈だけではなく、多くの人が読むことが出来るようになり、色々な解釈が生まれ、1517年、ルター 宗教改革を唄うということに発展していくわけです。1438年から1478年イタリアのフィレンツェのMedici家の独裁体制固まる。大変な銀行家の出現でした。益々、会計の重要性が問われる時代に入っていくわけです。この頃の日本では1467年日本では応仁の乱が始まる。
パキリオの話に戻ります。この数学の本の付録に商人のための複式簿記として、一つの取引を二つの勘定へ対応的に記入する会計の方法とそのあり方を付録として乗せたことにある。この本は本来、数学の本であり、彼の焦点はこの数学にあったと思える。ところがこの本の付録、その題名はDe Computis et Scripturisなる薄っぺらな小冊子が最も貴重な、長く読まれ、当時のベニスの商人たちの会計基準となるのです。パキオリだけが当時の数学者・教育者だったわけではないですが、彼の教えの特徴は簡単なことを雄弁に且つ迫力もって説明するところにあったとされています。単に、ここには複式簿記の方法が書かれているのではなく、現代にも充分説特力のある、”帳簿は毎年締めるのが良い、特にパートナーシップなどでは、なぜなら几帳面に、回数多く帳簿をつける習慣は友を増やすからです。””なにもしない人間は間違いをしない、しかし間違いをしない者はなにも学ばない”、”法はしっかりと目を覚ましている者を助け、眠っている者は助けない、目をしかりとあけているのだ!”彼の説いたこの4点をとっても、ここには犯罪の防ぎょ、重要性や客観性の原則、流動性の原則など現代の会計原則が説かれている。
会計の基盤を最初に学問的に、実用的書き記した最初の数学者、パキオリ。パキオリさんてどんな人なんだろう?どうやって彼は会計の知識を取得したのだろうか、ただ彼が商業学校で教育を受けただけでは説明がつかない。彼の20歳代前半、彼は彼の生まれ育った町、Borgo San Sepolcro, イタリアの中部にある小さな町の豊かな商人のところで見習い奉公人をしていたらしい、近くの有名な街といえば北側にあるフローレンス、東側にはアドリア海に面したサンマリノではあるが、日本でいえば長野の山の中って感じがするところである。彼が20になったとき、彼はベニスへと行く。Borgoからベニスといえば北へかなりの距離である。しかし当時のベニスといえばシェイクスピアの小説、ベニスの商人、でも知られ、大変な商業都市である。どんなつてがあったのかな不明だが、18歳になった彼はベニスの豊かな商家、Antonio Rompiasi家の3人の息子たちの家庭教師として迎えられる。1464年頃である。自身の数学の勉強をしながら、家庭教師をし、そのころ彼の最初の数学の本を書く、教えている子ど達の数学の教科書である。そのころ、彼はベニスの有名な数学者、哲学者、作家でもあった大学教授のDomenico Bragadinoから高度な数学を学んでいたとされている。家庭教師をしながら、有名大学で学んでいたということでしょう。
1472年から1475年の間に、彼が30歳になったころ、彼はフランシスカン派の牧師となる。Fra Luca, father Luka, Friar Lucaの誕生である。数学とキリスト教の神学を教え始めた。筆者は1957年に米国のコロラド州デンバーにあるカトリックのカレッジ、Regis College,に留学したこともあり、牧師になっていく人達にも友を持つことになったが、そんなこともあり、パキオリがcanonistsになり、牧師になっていく過程を自分で推量してみた。正しいかどうかはわからないが。当時のルネッサンス文化背景には、ルネッサンスヨーロッパへと発展していく過程で、会計と会計(accounting)という言葉は同時に道徳と宗教を内包する属性を持っており、KRINOSの様な,それは人の魂に対する最後の審判(judgement of souls)(KRINOS)並びに宗教上の罪の監査(Audit of sin)を人に思い起こすものでもあった。人は死ぬとすぐ神の前に引き出され、罪の監査と、それにより神のジャジメント、つまり裁決を受ける。罪あるものは地獄へ、良きものは極楽へ送られるというのだ。これがジャジメント,KRINOSという言葉の持つ意味の重さであり、そこから会計((ばらばらにつけられている情報が どこに、どれだけ、どんな状態にあるか。ばらばらで形のない情報を理解して、つなぐことで価値が生まれる。)という意味に繋がっていく。当時の社会的な一般常識であったとご理解いただきたい。
1477年から1480年、Perugia大学で教鞭、600ページの数学の教科書を書いている。 彼は熟練した観察者でもあった。だから、彼はベニスの商人たちが借方(debit)と貸方(credit)と呼ばれる二つ記帳をすることにより、商売の取引の連鎖を記録していることに気が付いていた。会計でdebit(借方)、credit(貸方)という言葉の使用の歴史的起源といえば、簿記の単式記入法の時代から存在しており、その意図は主として、お客さん(debtor=債務者)に貸している金額並びにcreditor(債権者)に借りている金額の連鎖の記録に使われていた。debit(借方)はラテン語で”彼は所有している”であり、credit(貸方)はラテン語で”彼は信用する”という意味であった。一つ一つの取引はそれぞれ単独に記録されていたが、まだ、バランスシートのコンセプトは生まれていなかった。また、例えば、一年という一つの期間、ある期間を限定して、その間、商売が儲かっているかどうかを調べる努力はされていなかった。パキオリは商取引を分類し、記帳することにより、改良をし、バランスシートの作成に必要な要素を提示した。
このパキオリの書いた小冊子の記述範囲に説明されているシステムは彼によって考案されたものではない、ベニスではこのシステムは13世紀にさかのぼって使用されてきている。しかし、パキオリは多くの異なる会計の原理を集結させ、整理し、順序正しいシステムにした最初の人といえる。 そのことが現代の複式記帳法、複式簿記の基盤となったことには疑いを残さない。パキオリ自身商売をしたことはない、商人であったこともない、学者たちの信じるところでは、パキオリの早い時期での徒弟見習期間、あの富豪のRompiasi家の子供たちの家庭教師として、彼は簿記をつけるプロセスを観察し、たぶん、簿記をつけるのを助けることもしたのではないだろうか。
彼は会計に関する論文の書き出しとして、商売を成功裏に運営したい者にとっての3の必要事項とかきとめ、彼の会計に関する論文書き始めます。彼は宣言します:最も重要なものは現金です 又は それと同等の経済力を持ったものです。第2に、良き会計士であるとともに、巧みな数学者になること。第3にすべてのビジネスに関する仕事は秩序を経てて遂行できるよう整理整頓され、それらの詳細を一目でわかるようにしてあることである。彼のアドバイスを宗教上の考えと調和させて、彼はビジネスマンの第一の責任は動産並びに不動産の在庫を整える、すなわち、動産 並びに不動産を一つ一つ、そのコンディション、各性格 そして貸してあるのか、預託されているのか記帳することにある。
取引は明白すぎることはないと彼は断言する。パキオリは商人たちに3の帳簿をつけることをアドバイスしている:1.the memoriale (英語で:memorandum、メモ) 2.the giornale (journal、仕訳帳) 3.the quaderno (ledger、原簿)としてあり、the ledger(原簿、台帳)を中心の書類とし、そして the ledgerにはアルファベットのインデックスをつけるとある。
メモランダム又は原始記入帳簿:借方と貸方を目録してある仕訳帳:そしてアルファベット別にすべての債務者と債権者を記載してあるインデックスがついて且つそれらの各自の帳簿に記載されている債権のページ番号が記載されている原簿または台帳の3である。もしも借方、貸方の総計が等しくないならば、そのエラーは入念に突き止めるの様な説諭もふくめて、試算表の作り方も注意深く説明されいる。帳簿の残高がまとまり、新しい帳を開く前に、パキオリは忠告する:仕訳帳と原簿(台帳)を注意深く比較することとある。彼は控えめに提案する:商人は助手を雇い、まず仕訳帳を助手に渡し、商人自身は台帳を持つ。そして、助手が各々の記載事項が、最初に借方勘定、それから貸方勘定を記帳されているべき原簿のページ番号を声に出して言う間、その商人は特別なマークで原簿に記帳されている記載事項をチェックする。もし帳簿が合わなければ、パキオリは言う、不一致は確認され、帳簿は訂正されなけばならない。
彼は同時に経費勘定項目や小払い用の現金勘定項目に関してやパートナーシップ勘定並びに代理店勘定や銀行や役人との対処方法とも大変しっかりとした忠告をしている。書類はしっかりと正しく確認され且つファイルされなければならない、そしてビジネスマンというのは思い出させるためのメモ帳を持ち、それに毎晩床に就く前に、終了した件はチェックオフし、残っている件を見直す。このようなことを提案している。
彼の人生を通して、彼は真のルネッサンスマンであった。彼は著者であり、複数の大学で数学を教え、彼の生まれ故郷の町の僧院の僧長であった。
それでは、パキオリは当時の有名人であったかというと、そうではなかったと言える。彼の、例の会計学に関する21ページの付録本は多く翻訳されたが、それにとどまった。それから15世紀の後半、イタリアはスペイン帝国の支配下にあったり、フランスの侵入があったり、当時の有名な思想家、Pico Della Mirandolaも会計学を商人の数学として蔑視していたとされている、当時の大学教育の専攻科目やカトリックのイエスズ会 並びに Erasmian(エラスムス、オランダの人文主義者)派から会計学は学問としては除外視されていた。多くの当時のエリートは会計学を商人の数学として蔑視していたと言える。次の300年、18世紀になるまで、会計学は英国の商人たちの中心になることはなかった。
しかし時代は急激に変化していく、当時のお金といえば主に金とか銀のコインが主でした。15世紀から17世紀、スペインがアメリカ大陸から多くの金を欧州へと持ち込むのです。金の値段は乱高下し、その価値は下がり、巨大なインフレが欧州を襲います。お金に対する、いや 勘定に対する認識は次第に一般市民へと広がっていきます。18世紀、会計は英国商人たちの重要な学問となる。
終り